色とりどりの衣装が華やかな練り行列

聖武天皇祭の朝、東大寺には天平文化を思わせる大きな幡(ばん)が掲げられていました。幡は布でできた旗のようなもので、祭祀で仏を供養・荘厳するために用いられます。
8時から11時半頃まで天皇殿で論議法要が行われ、13時頃から練り行列が始まります。行列は、奈良県新公会堂を出て、南大門を通過し、大仏殿へと向かいます。行列が大仏殿に近づく頃には、鏡池水上舞楽台で舞楽が始まり、行列と共に雰囲気を盛り上げます。
行列の人数は約300人!先駈(さきがけ)、道楽(みちがく)を奏でる楽人・稚児(約50名、同伴の母親等約50名)・物詣女(ものもうでおんな)及び小野小町(日本舞踊社中)・ミス奈良・聖武講役員・僧兵・会奉行(えぶぎょう)・式衆(東大寺本山末寺の僧侶約50名、伴侍・傘もち約50名)・華厳宗管長・侍僧等、から構成されます。


こちらは物詣女。平安時代(794〜1185)の貴族の女性が寺院や神社へ参拝する時の服装です。垂れ衣は虫除けと、日よけ、そして顔隠しの役割があります。この時代の女性は、簾(すだれ)の内で生活していて、夫以外の男性には顔をみせず、外出時は顔を隠しました。
黒い着物を着た僧侶の後ろに、頭に白い布を巻いた行列が続きます。

頭を白い袈裟(僧侶の衣服)で包み、黒の着物を着て、下駄をはいています。これは僧兵という武装した僧侶の姿です。平安時代(794〜1185)に寺院が自分の領地を守るために、自衛するようになったことが理由で奈良や京都から僧兵が出現しました。僧兵は、全国に広がり、戦国時代(1467/1493〜1590)まで続きました。奈良の東大寺にもたくさんの僧兵がいたことが知られています。
次に会奉行(えぶぎょう)、式衆(しきしゅう)が続きます。
最後列には、華厳宗管長が神輿に乗せられ続き、行列は終焉します。東大寺の僧侶の衣装と赤い和傘の色がはえて、とても華やかでした。
一度にたくさんの僧侶の行列をみる機会はめったになく、総勢300人の練り行列は圧巻でした。
聖武天皇が目指したもの
聖武天皇の母親は策略にたけた藤原一族の出です。聖武天皇は政略結婚の中、701年に生まれますが、父親とはわずか7歳で死別し、母親は出産後に精神を病んだため、37歳まで会う事ができませんでした。即位してからも、藤原氏の政略に翻弄されるだけでなく、治世時代には稀にみる大地震や大干ばつ、飢餓、疫病の流行が相次ぎました。
そんな中、聖武天皇は仏教の力で国家を平定しようと、743年に大仏造立の詔を発令し、行基らとともに、大仏建立を決意します。そして、752年には、大仏に目を書きいれる開眼供養が盛大にとり行われました。
その後、聖武天皇は旧暦の756年5月2日に56歳で亡くなりました。
「生きとし生きるものが共に栄えること」を願って、東大寺は造立されました。
世界に存在するものは、深い相互依存関係の上に成り立っています。それに気がつかず、自分の欲望にとらわれるままお互いに争うことで続く苦悩の世界から、一人一人が他者に対する思いやりの心を持ち、共に栄える世界を聖武天皇は目指しました。
聖武天皇祭は、そんな天皇の偉業をたたえ、遺徳をしのぶ法要です。普段非公開の天皇殿が参拝できるので、ぜひ機会があれば訪れてみてください。