【CONTENTS】
法隆寺を建立した聖徳太子ってどんな人?
南大門の前の大きな魚形の石は何の意味があるの?
日本最古の金剛力士像
ギリシアの建築様式が1400年前の奈良に出現!?
法隆寺の7不思議とは?
黒幕は誰だ!一族滅亡と古代史ミステリー
時空を超えて、檜を熟知した古代の職人技に脱帽!
法隆寺を建立した聖徳太子ってどんな人?
日本ではなかば神格化された逸話をもつ飛鳥時代(592~710)の政治家です。天皇中心の国づくりを進め、仏教を奨励し、和の心を尊ぶ日本で最初の憲法を制定したり、有能な人材を家柄に関わらず登用することのできる制度を作りました。
太子とその一族は斑鳩宮に住んでいました。太子の死後、皇位継承争いで息子の山背大兄王は豪族の蘇我氏に襲撃され、一族は斑鳩宮で自害し滅亡しました。法隆寺の夢殿は、斑鳩宮跡に太子を偲んで建てられたとされます。夢殿には太子の在世中につくられた等身大の像ともいわれる救世観音が納められています。

南大門の前の大きな魚形の石は何の意味があるの?
約200mほどの松並木を進んでいくと、ほどなく正面にみえてくる大きな門が南大門です。
南大門は法隆寺全体の入り口になります。南大門の石段の下には、なにやら魚の形をした大きな踏み石があります。なんのためにあるのでしょう?不思議ですね。
この石は鯉石といい、江戸時代(1603~1868)から伝わる7不思議のひとつです。どんな大雨がふっても、鯉石の位置より水位はあがらず、魚はここまでしか来れないという結界をあらわしているといいます。
南大門をくぐると向こう側には、遠くに中門と五重塔が見えます。いよいよ法隆寺へと進みます!
日本最古の金剛力士像
南大門を後に前に進むと見えてくるのが中門です。左右には、金剛力士像があります。


どちらも法隆寺創建時でなく、奈良時代の711年に造立されました。口を開けている阿形像と口を閉じている吽形像、違いがわかりますか?阿形像は、全体が粘土でつくられた塑造で、吽像は雨風にさらされ傷みが激しかったため、頭部のみ塑造で胴体は木造に改められています。
中門の真ん中には、柱があります。門なのに、なぜ中に入るのを阻止するかのように中心に柱があるでしょうか。
この柱は門を閉じる閂の役目をしており、自害した一族の怨念が外部にもれないためにあるという説があります。この門は、魂の出入りを制限する門なのです。
ギリシアの建築様式が1400年前の奈良に出現!?
中門の柱の形は、エンタシスというギリシアのパルテノン神殿の建築様式と同じものです。

T金堂や回廊にもみられます。法隆寺のエンタシスは檜で、上の部分と下の部分が徐々に細くなるデザインで、下から見上げるとまっすぐに安定しているような目の錯覚が生まれます。
それにしても、1400年もの昔に遠いギリシアの建築様式がどうやって伝わったのでしょうか?ギリシアから中国を経由して伝来したとすると、途中の国でも同じ様式がみられるはずですがみられないので、日本独自のものではないか、ともいわれています。

法隆寺の7不思議とは?
南大門の鯉石も含めて、法隆寺には全部で7つの不思議が語り継がれています。
- 伽藍(法隆寺の建物)には蜘蛛が巣をつくらず、雀も糞をかけない。
- 南大門の前に鯉石と呼ばれる大きな石がある。
- 五十塔の上部の九輪に鎌が4本刺さっている。
- 法隆寺の中庭には地下に蔵が3つある。
- 因可池の蛙には片目がない。
- 夢殿のお坊さんが座る台の裏が汗をかいている
- 雨だれの穴が地面にあかない
実際とは異なるものありますが、いずれも聖徳太子を敬う人々の気持ちと様々な伝説から生まれたように思われます。
黒幕は誰だ!一族滅亡と古代史ミステリー
法隆寺は607年に太子が創建し、死後、670年に焼失した寺を藤原氏が再建したといわれていますが、その年代はさだかではありません。山背大兄王を殺害の後、代わりに国を取り仕切っていた蘇我氏は、藤原鎌足らに暗殺され、2大勢力を排除した藤原氏一族は権力の座につきます。山背大兄王らを滅亡に追いやったのは、蘇我氏ですが、その陰謀の黒幕は藤原鎌足で、太子の怨霊を鎮める怨霊封じの寺ではないかという説があります。
夢殿の救世観音は、調査のため開帳をせまったアメリカの東洋美術史家のフェノロサによりその封印がとかれる1100年もの間、祟りを恐れ秘仏とされました。

時空を超えて、檜を熟知した古代の職人技に脱帽!
地震の多い日本で、約1300年以上もの間、存在しつづけ、その美しさを保っている法隆寺とそれを手がけた当時の職工たちの智慧には目を見張るものがあります。
法隆寺は檜でつくられています。檜は材料として伐採されてから300年までは強度が最大30%ほど増しますが、500年〜1000年後には徐々に弱まり、1300年後には新材と同じ強度に戻ります。現在の法隆寺は、1300年ほど前と同じ強度の材木で建てられていることになります。建立当時、長期的な視点を持ち、檜の資質と強さ、その扱いを理解していた工人がいたことは、驚きですね!
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〒636-0115奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1の1