<四谷荒木町・今昔散歩 ~荒木町の重鎮が語るとっておき秘話~ ③地形が街を再生させた>

たびたび、フリー編集者のシゲです。30年ほど前から約10年間に渡ってこの界隈にオフィスを持った出版社で働いておりました。荒木町にもよく出かけましたが、この街は道は細いわ、やたらと階段があるわで、いつもと行き方を変えただけで、慣れた場所でも方角がわからなくなるほど入り組んでいます。この街ほど地形が重要なファクターになっている場所も少ないでしょう。今回はその辺りのお話を荒木町の生き字引こと創業60年、「とんかつ鈴新」の鈴木洋一さんに伺います。


復活の陰に『荒木町を発見する会』

前々回に鈴木さんもお話されていたように、ここ荒木町は街全体がかつての美濃高須藩初代藩主、松平義行が建てた屋敷跡になります。初代藩主松平摂津守義行の名から、街の東を通る「津の守坂」の名前も付けられています。屋敷は全体に窪地に作られており、底にあたる部分に現在も「策(むち)の池」があります。

屋敷は明治になって公開され、池と庭園がそのまま景勝地として発展し、花柳界が形成されてゆきます。窪地であったことから、近代の都市化においても大きな建物が建ちづらく、古い風情が残ったまま繁華街として続いていきます。

昭和58年(1983年)に花柳界は消滅してしまいますが、その頃は近隣にフジテレビ、文化放送、日本テレビなどメディアの本拠地が多く置かれていたこともあり、通な常連でまだ街は賑わっていました。

「ところがバブル崩壊(1991ー1993年)でドーンと売上が落ちて、さらにフジテレビさんもいなくなっちゃう(1997年。のちに文化放送、日本テレビも移転)。それでなんとかしなきゃいかんな、と思って20年くらい前、商店会を立ち上げようと思ったら、これが簡単じゃなかった。始めは反対が多くて」

反対? どうして・・・?

「花柳界があった、ってことは三業組合(料理屋、芸者屋(置屋)、待合(茶屋など)の三つの業者が集まって作る組合。見番とは本来はこの三業組合の事務所のことを言う)がすでにあったわけですね。そこと目的が重なっちゃう、ということでしょうね。そんなこと言ったってもう花柳界はなくなちゃったんだし、古い組織でやっても新しいことは動かないでしょ? それでみなを説得して商店会を立ち上げました。新宿区で100番目の商店会でした」

それは縁起がいいですね。

「いいタイミングでしたね。まあ、その後なくなっちゃった商店会もあるから、今は新宿区で100番目じゃないかもしれないけど。それで、初期に活動を手伝ってくれたのが『荒木町を発見する会』という組織でね。よく言うでしょう。町おこしにはよそ者、若者・・・」

馬鹿者ですね(笑)。その言葉はよく自治体の人が使うのを知っています。

「そう。つまり外から来た人たちですね」

どういった職種の人が多かったですか?

「建築関係とか、そういう人が面白がって」

やはりそうですか。最初のメンバーは赤瀬川原平さんとか?

「ええ、しょっちゅういらしてましたよ。あとは有名な人では藤森(照信)さんとか」

みな路上観察学会のメンバーですね。

「そうです、そうです。よくご存知ですね」

僕はウォーカー誌の元編集長、と紹介していただくことが多いんですが、編集者に成り立てのころは住宅関連誌にいまして、赤瀬川さん門下の人と一緒に仕事もしていたことから、設立当初から路上観察学会のことは知っていました。今で言うと『ブラタモリ』のような活動を、自主的に行っていた趣味の団体ですね。

これは鈴木さんの事務所にあった、昭和12年の住居地図(全体図は後ほど)の一部を拡大したもの。中心に今と同じクランクの道があって、読みづらいですが、その右に「三業組合事務所」とあります。つまり見番です。現在マンションが2棟たっているところですね
荒木公園から、かつての見番のあった場所のマンションの方向を見たところ。もっと前はこの公園が見番の敷地で、昭和になって地図のようにこの写真の正面に移転します

「荒木町を面白がる人って昔からよくいるんです。地形が面白かったり、歴史が面白かったり、花街がかつてあったのが面白かったり。商店会の人はみな自分の商売持っているから、地域全体の活動に興味を持ってもらうのってなかなか難しいんですよ」

確かに。街を散策するのと、お店で呑むのは、似てるようで全然違う行為ですもんね。

「そうなんです。だから、よその人が来てくれると助かる。そうした人たちのアイデアを借りて、いろんなことをやりましたよ。振舞い酒とかチンドン屋とか(笑)。振舞い酒の時はスナックのママさんたちに着物着て今のみずほ銀行の前辺りに集まってもらってね。薦被り(こもかぶり=4斗樽)をバーンと割って。お店はだいたい7時くらいに始まりますからイベントは6時からにしたりね。サラリーマンの多い場所だから、けっこう効果がありました。車力門通りの赤い門も、初代は僕が作りました、人力車のマークみたいなの。僕が描いて、4軒しか残っていなかった川口のキューポラのある鋳物工場で作ったんですよ」

前回は石原裕次郎の話が出ましたが、ここで川口のキューポラですか(吉永小百合の出世作が川口を舞台にした映画『キューポラのある街』。キューポラ、とは鉄を溶解する燃料としてコークスを使った溶解炉の一種)。つくづく通な人ですねー。

これが現在の車力門通り入口のゲートの上にある車力の像
この赤い門の上に車力の像があります
夜になるとこんな風情のある門です

街の歴史が、ヒントをくれた

「ここを『車力門通り』、と名付けるイベントもその頃にやりました」

え? 『車力門通り』って、そんなに最近名付けられたんですか?

「江戸時代には『車力横丁』って呼ばれていたらしいです」

いずれにしろ、車力(運搬業者、の意)専用道的な意味合いですよね?

「そうでもないんです。前にも見てもらった江戸時代の屋敷の絵、右上のほうよーく見てもらえますか?」

???どれですか?

「ヒントで上に拡大写真が」

門、ですね? ああ、車輪の絵が描いてあります。

右上・・・?と一生懸命見るのですが小さすぎてわからない。と、その上に拡大したものがありました
屋敷全体の絵の右上を拡大したもの。確かに、門に車輪の絵

「そう。それでね、車輪と言えば車力だから、この辺を『車力横丁』とか『車力門横丁』と呼んだそうで、池波正太郎さんの『鬼平犯科帳』に、お峰、という盗賊が車力横丁から出てきて籠に乗った、ってな一節がありますよ」

へー。下り坂の終点がクランクになっているから、荷車がスピードが出過ぎないように江戸時代にあえてそうしたんだとと勝手に思っていました。

「大名屋敷だったから、道が曲がりくねっているのは防御上だったのではないかと思っているんですけどね。その形がそのまま残っているのも面白いらしいです」

「花柳界が全盛のころは、通りの入り口に『宇廼丸(うのまる)商店』っていうかんざし屋があったんで、『宇廼丸横丁』って通称があったんですが、花柳界もなくなったし、名前を付けるイベントをやろう、ということになって、町内から公募してこの名前を付けたんです。それが18年くらい前かなあ。それで、10年くらい前に、新宿区からも正式に『車力門通り』という名前にしてもらったんです」

そうだったんですか。全然知りませんでした。最近は古地図で江戸の記憶を辿る旅が流行っていますが、ここは絵一枚に多くの情報が残されていて面白いですね。

晴れて『車力門通り』の名が区公認となった証が、この荒木公園脇にあるサイン

古地図を使って、リアル『ブラタモリ』

ところで、『とんかつ鈴新』さんの横は金丸稲荷神社と荒木町公園がありますが、この神社の横の坂を下ると、すぐに津の守弁財天があって策の池があります。こんなに近くに別な神社があるのが前々から不思議に思っていて、どちらが古いほうなのか気になっていました。

これが坂のふもとにある津の守弁財天と、祠(ほこら)に隣接した策(むち)の池。明治期までは今の200倍くらいの大きさであったかと推測されているそうです
これは明治期の地形図。現在の池は、位置も大きさも真ん中の小さな水溜りくらいのものではないかと思われます

「僕もね、どちらかが古いんだろうと思っていたんですが、江戸時代にはどちらも少なくとも今の場所にはなかったんじゃないかと思い始めているんですよ。それもこの屋敷の絵を見たからなんですが。この絵、4~5年前に発見されたものなんです」

けっこう最近ですね。

「よくうちに来るお客さんで千秋文庫(九段にある旧秋田藩主佐竹氏の資料展示館)の人がいて、『今度うちでこの絵を展示するんだけど、荒木町なんじゃないの?』って見せてもらったのがきっかけなんです。この絵の中にも鳥居はいくつか見えますけど、今の場所となかなか一致しない。今度、発見する会の人たちとまた見に行くんですけどね。いずれにしろ神社に関しては、この辺花柳界だったんで、料亭の庭先とかにも小さな祠(ほこら)はあったでしょう。その後料亭を取り壊す際に祠だけは残しておこう、となったんじゃないかと思っているんです。その根拠としてもうひとつ、こっちの地図見てください」

鈴木さんの事務所には、昭和12年と昭和54年の住居地図が貼ってありました。これも『荒木町を発見する会』の人たちとともに「発掘」されたようです
こちらが昭和12年の住居地図。先ほどの拡大図のほうがわかりやすいですが、現在の金森稲荷の場所にも、津の守弁天の場所にも神社は描かれていません。ちなみに地図をオレンジで色付けしてある建物は公衆浴場。緑は医院
こちらは昭和54年の住居地図。こちらには金森稲荷の位置に鳥居のマークがあります

「これ、昭和12年の地図なんですけど、神社、どこにもないでしょ?」

ていうか、池も描かれていませんね。

「池はあったんだろうけど、誰かの家の敷地内、ってことかと」

ああ、これは住居地図ですものね。

「それで、こっちの昭和54年の地図を見ると、ここには神社がある。てことは、今の神社は昭和12年から昭和54年の間に作られたはずですよね。まだいろいろ調べてみないとわからないですが」

こりゃー面白い。まさにリアル『ブラタモリ』ですね。

「『タモリ倶楽部』は来ましたよ(笑)」

こちらが現在の金森稲荷神社。『鈴新』さんの隣にあります。確かに昭和12年の地図にはないですが、説明書きには美濃高須藩の屋敷ができてすぐに建立した、と由来が書いてありますので、それが本当なら当初は別な場所にあったのでしょう。この辺も追い追い解明していくといいですね

「あと、古いほうの地図を見ると、浴場が多いでしょう?芸者さんって、昼間稽古して、置屋には内風呂がないから、銭湯行って、それから白粉付けて、見番寄って、お座敷に向かってたんです」

なーるほど。

「花柳界全盛のころには、桐座、という芝居小屋もありました。歌舞伎を上演する劇場も二つくらいあったと聞いています。これは焼けちゃったんですが、残っていれば劇場の街になっていたかもしれないですね」

一時の下北沢みたいな街になったかもしれないですね。

「昭和12年の地図には杉大門通りに映画館が描かれているでしょう。これ、『四谷シネマ』かな、『四谷キネマ』かな。今は料亭になちゃったんですが、これなんかも芝居小屋が多かった歴史からくるんでしょうね」

地形的に開発が困難なことから街並みが江戸の記憶のまま残っているのが荒木町の面白いところですが、その地形の複雑さから開発に取り残され、廃れたかと思ったら、今度はその地形の面白さが赤瀬川さんや藤森さんの興味を引き、新たな荒木町の魅力が発信されています。地形のおかげで衰退し、地形のおかげで復活した荒木町。日本中で古地図を片手に街を散策するのがブームになっている今、散策もできておいしいお店もいっぱいあって、新宿からもすぐ、という地の利も、これからの人気を後押ししそうです。

昭和12年の住居地図の杉大門通りの部分を拡大したもの。確かに『四谷シネマ』もしくは『四谷キネマ』らしき文字が
地図をたよりに杉大門通りの元『四谷キネマ』の場所を訪ねました。写真右奥が新宿通りです。ちょっと古めの飲食ビルが建っていましたが、地図的にいうと、路地がひとつ無くなっていて、この白い建物はかつての四谷キネマが左半分で、右半分は料理屋など4軒の建物だったと推測されます。ところが、
かつての「四谷キネマ』跡地の白い建物の中心に、なぜか建物を貫いて、裏道へ抜けられる通路が。つまり、これが地図にあったかつての路地と思われます。四谷キネマと隣接する土地をすべてひとつの建物にする際、元路地があった場所は人が通れるようにしたのではないでしょうか。なんとも荒木町らしい話です
さらに、拡大した昭和12年の地図に「松の湯」とある場所は現在このマンションなのですが、なんと1階にエステサロンがあります。偶然か意識してか、今も昔も荒木町の姐さんたちの美しさを支える場所になっているんですね

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